ことばのちからとその限界


なんとなくこのタイトルでブログを書こうと思いついてからもうすでに4週間も経っている。

鮮度はかなり落ちてきている気もするけど、時間の経過が致命的に味に影響を及ぼすテーマでもないと思うので、書こうと思った4週間前の感情に忠実に書いてみようと思う。


ことばにはちからがあると僕は思う。


これまでの経験上、僕は色んな言葉に影響を受けてきたと思う。

ふとした瞬間に鮮明に思い出す言葉があったりする。


それに、これまでの経験上、僕はことばのちからに頼ったことがある。

誰かを鼓舞しようとするとき、誰かを励まそうとするとき。さらには自分を勇気づけたいときにも。


でも、ことばには限界もあると思う。


そんなことに気付く出来事が1ヶ月半ほど前にあった。


ことばを発していない人から、メッセージを感じ取ることがあった。

その人はとっても考えている表情をしていて、何かを言いたげな表情をしているようだった。


ことばにならないことばを心に持っているような。


実際にそのときにその人は何か言いたいことがあったらしいと後で分かった。

もし、あのときその人がすぱっと何かすっきりしたことばを発していたら僕は特に何かを感じることは無かったかもしれないけれど、その人がことばにならないことばを心にしまっていたから僕は何かその人を応援したくなった。


ことばは相手に何かを伝える尊い役割がある。


でも、ことばは、ことばになった瞬間に、可能性を狭めることもある。

想像力を狭めることがある。

何か決まったイメージを着込んでしまうことがある。

気がする。


ことばにしてすぱっと言えるようなことは案外重要なことではないのかもしれない。


ことばには出来ない悩ましいこと。

ことばにしたいけどうまく言い表せないこと。


そういうことほど重要だったりするのかもしれない。

そういうことほどオリジナルだったりするのかもしれない。


そんなことを思えば思うほど、世界はどうでもいい言葉で溢れかえっているような気持ちになったり。

世界はことばにならないオリジナルを許容できる器を捨てているように見えたり。


ことばにならないことばを心の中に持っている表情を見逃さない器、ことばにならないことばを想像しようとする心の目を持っていたいなと思う。


コミュニケーションの良し悪しはどれだけ間(ま)をことばで埋めるのが上手いかではないはず。

ことばにならないことばを拾ったり、ことばにならないことに向き合うことなのではないか。

コミュニケーション、つまり、意思疎通は意思があることが前提なのだから。

意思の無い誰でも言える言葉を次々に並べられる能力はコミュニケーション能力(コミュ力)ではないと信じたい。


ことばにはちからもあるけど、限界もある。


そんなことを忘れずにいきたい。



とかなんとか、ことばにしている自分。丁寧に生きましょう。



山本修太郎

山本修太郎のブログやら普段やっている活動に関して発信するためのページ。

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