珈琲は深煎りが好き。
深煎りの苦い珈琲に生クリームを入れようとしたウインナー珈琲を発明した人を尊敬するくらい、
ウインナーコーヒーも大好き。
最近の考え事の一つに思考や言葉を深めるにはどうすればいいか、ということと、
遊び心を生み出すにはどうすればいいか、ということの2つがある。
これは僕自身が興味を持っている最近のテーマでもあるけれど、
むしろ深い思考や言葉、さらには遊び心をもっと持ってほしいなと感じる仲間が増えたことが、
興味の源泉にはある。
物事を考えたり、言葉にしたりすることは人間のある種の生きるということの定義に近い気がする。
一方で、その定義は刻々と変化している気もする。
考えなくても生きられるように世の中は日々仕組化されているし、
言葉はなくても生活はそれなりに成立するようになっている。
物事をどう考えるべきかのべき論は増え、
言葉にする筋道すら立てられている中で大人になる。
それを教育と呼んでしまっている部分も多々ある。
体系立てられたカリキュラムが生み出すのは正解だ。
いや、正解という名前を付けられた画一的な何かの一部だけを生み出すだけだ。
体系立てられたカリキュラムが生み出すのは誰かが使い古した意思のはっきりしない言葉だ。
大人が正しいと思っていることが正しいのか。
そもそも大人と子供っていう区別はなんだ。
教える立場と教わる立場はもっと流動的でいいのではないか。
学び合いながら、揺らぎあいながら、その揺らぎがエネルギーなのではないか。
ゼロから思考を始めることにはものすごいエネルギーがいる。
でも、ゼロから自分の奥底にある何かを手繰り寄せながら、
他人のそれにも触れながら思考を積み上げてその過程を言葉にしていくことが学びであり、
未来をつくることのような気がする。
そんな積み重ねの中で、時には自然の中で遊び、時には都会の喧噪に揉まれながら飲み歩き、
どうでも良さげなとりとめもない会話をする。
そうやって深めた思考とどうでも良さげな何かが出会うとき、
深煎りの珈琲に生クリームが乗っかったような刺激的で飽きない持続的な未来が描けるのでは。
ウインナー珈琲な感じをつくることをしたいと考える今日この頃です。
思考、言葉、深煎りでお願いします。
その上に生クリームみたいな遊び心を。
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