最近の自分の様子に言葉をあてるとすれば、「音を、映像を、耳に、目に、流し込む」、そんな感じだ。朝起きて動画サイトを開き、バラエティ番組を流す。そこには見たいという意識は微かにあるけれど、それ以上に、何かを耳に、目に流しこみたいという意識が大きい。というか、何かを耳に、目に流し込まなければバランスを保てないという感覚かもしれない。
身支度をして家を出るとき、イヤホンを耳に突っ込んで、ポッドキャストの音声を耳に流し込む。コンテンツがおもしろいというのは理由の一つに過ぎず、それ以上に何か音を耳に流し込まないと落ち着かないといったことが理由としては大きい。
そんな時間の過ごし方をしている中で、ふと、イヤホンを外してみようと思った。もっと日常の静寂と向き合わないといけないのではないかと思った。正確には、日常の静寂の中にある自然の音と付き合った方がいいのではないかと思った。世の中にはたくさんのクリエイターがいて、日々様々なコンテンツが発信されている。それらを消費していく中で、自分の中にあるクリエイティブがどこかに逃げてしまうのではないかという気持ちになった。音を、映像を、耳に、目に、流し込むのではなく、音を、映像を、耳で、目で、きき分け、み分けることが足りていないと思う。自分だけの考え方とか、自分だけの表現みたいなものにどれだけの価値があるか分からないし、そもそもそんなものは存在しないのかもしれないけれど、少なくともそういうことを追い求めみてることにも楽しみがあるはずだと思う。
動画やポッドキャストから刺激を受けることもあるし、もはや、そういうコンテンツから逃れることはできないと思う。だからこそ、無秩序に自分をそこに浸すだけではなく、自分の心の中から湧き上がってくるような感情、言葉に自分を浸す時間も必要なのではないかと思う。
ポッドキャストが流れるイヤホンを外したとき、秋の匂いはより鋭く、優しく、秋の音はより鮮明に、多様に感じられた。季節の変化を感じながら、静かに過ごすことで生み出されてきた創造的なものは、昔から確かにあったよなと思う。短歌や俳句、絵画、そのほか生活に密着した色んな手仕事などの創造は、静寂と向き合う時間から生まれていたと想像する。当時は静寂でない状態をつくりだす装置そのものが少なかったのだろうけど。
静かに過ごすことにはちょっとした覚悟とか、忍耐も必要な気がする。音や映像で空間を満たすことが容易な中で、あえて、静かにするというのは、寂しさや孤独感と少しだけ対峙させられる体験な気もする。でも、どちらが寂しくて孤独な時間かは解釈次第な気もするし、何を楽しいと感じるかは自分の心の持ち様な気がする。少なくとも今の僕は、「音を、映像を、耳に、目に、流し込む」ことに時間、空間を侵食され過ぎていると感じていて、そこから少しでも離れる時間を作ることに楽しさを見出そうとしているらしい。
現状の書き付け。
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