こんにちは。山本修太郎です。
今日は、まさに思考の水たまりを排水するといった感じの内容になります。
9月末ごろからぼんやりと考えていることで、いつかはこの話題を書きたいなと思っていたんですが、なかなか書けずにいて、今日書くことに決めました。
特に結論があるわけでもなく、抽象的なことなので分かりにくいかもしれないですが、興味のある方は読んでみてもらえると嬉しいです。
ここ最近自分は無知だなぁと実感することが多かった。
正確に言うと、自分は無知だなというよりは、自分が知った気になって口にしてきたことの背景を知らなさすぎるなぁ、ということ。
さらに言えば、リアリティの持ててないはずのことに対しても自分の言葉のように意見を言うことが知らず知らずのうちにあったのではないかということ。
そんなことを考えるきっかけは、ある人ととお話をしているとき。
話題は地方創生とか働き方改革とか昨今ニュースになっているようなこと、僕の興味のあることなど。
そんな話題に対して僕の思うことや、それに紐づけて僕が地元で活動していることなどを話したりしていた。
そんな会話の途中、ある質問をされた。
「平和っていいことだと思う?」
僕は普段されたことのない質問に戸惑ったけど、少し間を置いて、
「はい、いいことだと思います」
と答えた。
すると、間髪入れずに
「なんで?」
と聞かれる。
僕は、何でかなんて考えたことも無かったので、戸惑い、
「だって、その方が良くないですか?」
と逆に質問し返した。
これが僕に質問に対する解が思い浮かばなかったというよりは、素直にその方が良いと思ったからだ。それは、論理ではない。彼女と喧嘩してるより、仲良しの方が気持ちいっていうのは当たり前に思うし、そんなことと同じように、そこに論理は無く、感情がそう言うから、僕は「何で?」って聞いてくる意図が分からずに、聞き返した。
すると、
「いや、何でその方がいいと思うの?」
と聞き返され、堂々巡りで、会話は収束した。
その後僕はやはり質問の意図が気になって、会話を続けようとした。
すると、その方は
僕のことを「教科書的で素直だ」
と教えてくれた。
その方は、それがいいとか悪いとかではなく、普通のことだととも教えてくださった。
たしかに言われてみて気づいたけど、平和がいい、なんてことは僕のリアリティを持って語られた言葉ではなかった。
修学旅行。小学校では広島に行き、中学校では長崎に行き、高校では沖縄に行った。そこで平和学習受けた。
歴史の授業。高校は日本史を取った。そこには数々の争いの歴史があった。
そして、その戦争や争いの結論には、戦争や争いはすべきではないというものがあったように思うし、そうであれば平和がいいという結論も自然だ。
平和がいいと答える僕が教科書的に見えるその方も、戦争や争いを肯定しているわけではなく、むしろあってはならないことだということもおっしゃられていた。
でも、その方が言いたかったことは、教科書はその背景をどれだけ教えてくれているのかという問題提起だったと思う。
その他の話題に上がった地方創生や働き方改革もそのニュースがどれだけその背後にあるものを教えてくれているのかという問題提起をその方は伝えてくれたように思う。
たしかに、地方創生が叫ばれるに至るまでには、地方から都市に人を集めて発展してきた背景があるし、そこには色んな思惑が錯綜していたのだと思う。
でも、それを語るとき、そんなことに思いを馳せることは無い。
平和がいいと語るとき、戦争はダメだと語るとき、その戦争が起こる背後にどのような互いの論理があったのか、平和を全人類が目指すときどんな可能性やリスクが考えられるのか、そんなことに思いを馳せることは無い。
そんな自分の存在に気付いた。これが無知の知ってやつなのか。分からないけど。
そんな自分の存在を認識したとき、簡単に賛成とか反対とか言えない自分がいる。
知らないことにはYESもNOも言えない。
戦争を経験したことのない僕に、本当に自分の言葉で戦争はダメだと言えるのか。そのNOにはどのくらいのリアリティがあるのか。
そんなことをぐるぐると考える。
でも、そうは言っても全てのことを知れる全知全能な状態になれるわけではない。
知らない背景を抱えていながらもYESかNOを言わないといけない時も来る。
そんなときに、無知な自分を知っていれば出来るだけ色んな人の話を聞いてみようとなれるし、色んな本を読んでみようと思える。
議論をしてみようと思える。
YESやNOをジャッジした先にどんな未来が待っているかは誰にも分からない。
でも、そのジャッジをきちんと議論して行い、ジャッジした後も議論を止めない、考えることをやめない、そんな人でありたいし、そんな社会がいいなと現状の僕は思っている。
思考せよ、って自分に言い聞かせて歩きたい。
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