気づいたら1年が経っている。そんな時間感覚に慣れつつある。それが悪いことなのか、いいことなのか、はたまたどちらでもないのか、どちらでもいいのか。分からない。
でも、気づいたら経ってしまっていたような1年の中に、その毎秒の中に、きっと小さな変化があって、それを掬い上げて振り返る時間が、気づいたら経っていた1年を救い、肯定することにつながるような気がする。
毎朝、同じ時間に起きる。というか、毎朝タイムリミットとして自分に課している時間までに起きないと仕事に行けない。(仕事に行かなければならないというのも固定観念なのかもしれないけど、そのことは一旦置いておく。)起きた後は決まった順番で、もはや無意識に淡々と、シャワーを浴びて、髭を剃って、ドライヤーをして、髪をセットして、朝ごはんを食べて、歯磨きをする。毎日が同じ日のように見える。
その繰り返しの中の一つとしてに、植物に水をあげるとき。今日が昨日とは違う1日だという当たり前に気づく。土の乾き具合、新芽の成長、役目を終えた葉の衰え、根の伸び、その変化の一つひとつに、今日が確かに昨日とは異なる1日だと気付かされる。
そこで初めて、今日を昨日とは異なる新しい1日として認識し始める新しい前向きな自分として1日を始める。一緒に暮らす相手の顔は昨日とは違っているし、鏡に映る自分の顔も昨日とは違う。
時間は平等に進んで、そこに居続けるだけで、自分の中に時間は堆積し続ける。そんな時間をより充実した、肯定できるものにしたいと思う気持ちはあるけれど、それが全てだとも思わない。時間、お金、感情、論理、置かれている場所、求められていること、なりたい自分、あらゆる要素のバランスの中で、そこに立ち尽くしてしまっているように見える時でさえ、確かに昨日とは違う新しい1日の中に居る。これは残酷なことにも思えるし、希望にも思える。誰にも平等に、目の前に昨日とは違う新しい1日がやってくる。このことの意味を考えた時に、自分が切に望むバランスが何なのか、見えてくるのかもしれない。
これまで書いた文章だって全てどうでも良いことだと思わせてくれるのも、昨日とは確かに違う1日が与えられることの良さかもしれない。同じ毎日の繰り返しのように見える中に、表情を変えながら佇んでくれる信頼できる存在があることで、そうではないと気づかせてもらえることは尊いことだと思う。
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