大切にしていたカメラを壊した話

僕は2018年頃からフィルムカメラを持ち歩いている。このカメラは実家から発掘したもので、我が家のカメラがデジタルカメラに移行するまで両親が使っていたものだった。このカメラが自分の手元にやってきた時、初めてシャッターを切った時、初めて現像した写真を見たときはとても嬉しく、その後、色々な場所にこのカメラを持って出かけた。思い出深いたくさんの写真をくれたカメラだった。


そんなカメラが先日壊れてしまった。電車から降りて駅の改札へ向かう途中で地面に落としてしまい、拾い上げるとカメラの背面が開き、フィルムが外に出てしまっていた。カメラの背面は何度閉めようとしても閉まらない。とてもショックだった。


この時、咄嗟に頭に浮かんだのは「カメラが壊れた」という表現だった。でも、実際にはその表現は正しくないのだと思う。カメラは壊れたのではなく、間違いなく「僕がカメラを壊した」のだった。


このカメラを初めて手にした時から今日までの間で、僕とカメラの間の関係は少しずつ変化していったように思う。最初は大切なカメラに気を遣いながら、持ち歩いていた。その後、次第にカメラを使いこなせるようになっていく過程で、もちろん愛情を持ちながらではあるが、カメラを乱雑に扱うようになっていたのかもしれない。今思い返すと。実際に、カメラを壊してしまったその日、本来は付けておくはずのカメラを吊り下げるストラップが故障していたが、僕は「1日サクッと持ち出すだけだしいいか」とストラップをつけずに持ち出していた。落としてしまった地面からカメラを拾い上げた瞬間に、なんでストラップをつけずに来たのかと思った。カメラは壊れたのではなく、僕によって壊された。


物だけでなく人との間でも言えること。これまで、それほど多くはないと思うが、人との関係が壊れてしまったことがあると思う。これもまた、関係が壊れたのではなく、自分がその関係を壊したのかもしれない。関係が築き始められた時から、関係が壊される時までの間、絶えずその関係は変化していて、どこかで元あったストラップを外したまま放っておくような瞬間があるんだと思う。


何かが壊れたとき、それを壊れたと捉えるか、壊したと捉えるか。受動と能動の違い。仕事をする時にも「主体性」とか「主体的に」とか「受け身になるな」とか「自責で考えろ」とかって言われることがあるけれど、何かが壊れた時に、自分が壊してしまったんだと自分の中に原因を求めることで、その後に築く新たな関係には、優しくあたることができるような気がする。主体的であること、能動的ではあることは、目の前の人や物に対して優しく接するための出発点なのかもしれない。

山本修太郎

山本修太郎のブログやら普段やっている活動に関して発信するためのページ。

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