こんにちは、山本修太郎です。
タイトルの通り、今日は「コミュニティ」という言葉について最近考えていることを書いてみようと思います。
僕が普段考えていることとしては、地元香美町を中心とした地域のこと、それに紐づく地域の仕事のことが多いんですが、その中で僕はなんとなくコミュニティという言葉を多用してきた気がしています。
また、僕と同じような興味を持っている人と話すときに共通言語的にコミュニティという言葉が使われていた場面も多々あったように感じています。
その一方で、コミュニティという言葉がとても曖昧な言葉であるということに気づき、ここで一度コミュニティという言葉の意味や、その言葉が指すものの価値を改めて考えてみたいと思いました。
今後、僕が何らか地域に関わる活動をしたり、ブログを使った発信をするにあたってその土台となるような話だと思うので、本格的なブログのスタートになる今日、このテーマを選びます。
前置きが少し長くなりましたが、結論から言うと、そもそもコミュニティという言葉の意味はまずもって複数あるのではないかということです。
僕が受験生の頃、頑張って英単語ターゲットで英単語を暗記する中で出会った”community”という単語には「地域社会」という和訳が書かれていました。
当時の僕は何の違和感も持たなかったし、今の僕も特に違和感は持っていません。
この、コミュニティ=地域社会というのが一つ目の定義
一方で、この意味では説明できないコミュニティという言葉の感触として、
コミュニティ=人が集まっている集い
という感じで使われてるコミュニティという言葉もあるんじゃないかなと思います。
これは例えば、最近よく聞くオンラインサロン的なものをコミュニティと呼んでいるケースとかですかね。あとは、僕は「しとしと」の自己紹介欄で「純喫茶や居酒屋などコミュニティを感じられる場所が大好きです。」と書いていますが、当時の僕もこのコミュニティについては、なんとなく人が集まっているあたたかい場的な意味で使っていたようです。
その他にもコミュニティという言葉の意味はありそうですが、パッと考えてもコミュニティという言葉には明確に指すものの異なる部分があるようです。
ここで、自分がコミュニティという言葉を使うシーンを思い浮かべると、後者の「コミュニティ=人が集まっている集い」を指していることがほとんどであると思います。
(地域社会を指す前者このコミュニティの場合は香美町とか明確なその地域の名前を使っていることが多い)
その意味でのコミュニティという言葉を僕はなんとなく分かりやすく感じ多用していた節があるけど、そのことのある種の危険性として、人が集まっているイメージが先行してしまうことがあるように思う。
というのが最近の気づきのようなものです。
僕が好きなコミュニティのイメージで一時期よく使っていた例として、僕のおじいちゃんとおばあちゃんが営んでいた梨農家をきっかけに出来ていた親戚家族のコミュニティがありました。
普段会わない親戚でも、梨の収穫期になると集まって箱詰めしたり、作業をともにし3時になるとおやつ休憩をするみたいな、素敵なコミュニティだったように思います。
でも、そのコミュニティには人が集まる目的があったから人が集まっていたということ。
そのことを何となく忘れがちになっていた。
それ以外にも、純喫茶、居酒屋、そこにはそこに行くための目的がある。
美味しいコーヒー、冷えたビール。
その目的がスタートで人が集い、コミュニティが出来る。
だから意外とコミュニティにはそれぞれの目的に伴って色があり、ある種閉鎖的にも見える部分があった。
そう考えるとコミュニティが消えているという言説も本当かどうか怪しい。
僕たちは僕たちの目的に応じて新しい形でコミュニティを生み出して生きている。
学校、SNS、オンラインサロン。
反対に、いらないコミュニティは捨ててきた。
事実として梨の収穫や出荷を目的に出来ていたコミュニティは梨農家という職業の消失、つまり梨の収穫・出荷という目的の消失に伴って消えました。
梨農家は経済的な理由、それに伴う担い手不足が一つの要因で無くなった。それは社会が一定の方向に一定の価値観(何がいいか、便利か、効率的か、センスがいいかなど)に従って進む中でいらないコミュニティとして捨てられてきた。
ちょっと行き過ぎた表現かもしれないけど、そんな側面もあるのではないか。
でも、僕は僕の価値観に従って考えたときにその捨てられたコミュニティを残したいと思った。
捨てられてきたコミュニティもその要因を社会の流れとして片付けずに、自分の言葉で自分の心で判断してみるとどうだろう。
だって、社会の言葉が自分の言葉だとは限らないから。
一回立ち止まって、互いのコミュニティという言葉の定義を共有しながら丁寧に考えてみたいです。
僕はコミュニティを作ることや復活させることではなく、今あるコミュニティが何を目的に成り立っているのか、どんな目的が果たされることが嬉しいのか、自分は何がやりたいのかを考えていくことが大事なんだろうと思います。
そこを間違えると、好きなコミュニティは経済を前にもろく消えることがある。
盲目的に人が出入りするだけの虚無な空間が出来上がる。
だから改めてしっかりと考えて、目的のために新たなコミュニティを作ったり、今いいなと思えるコミュニティを残していく、さらには消えてしまったコミュニティを再定義していく。そのためにきちんとそれを担保してくれている目的に対価を払っていく。
まとまりなくだらだら書きました。
書きながらまた混乱してきた感も否めないので、考えがアップデートされるたびにこのテーマについては書いてみたいと思います。
今日の文に違和感を持たれる方も共感される方もいるのかなと思いますが、それはコミュニティという曖昧さを持つ言葉故のことでもあるだろうと思います。そこを話していくことが本質なのかもしれないです。
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