イートインスペースは現代の公共空間なのかもしれない。
僕自身まだまだ知らないこと、勉強しなければならないことがたくさんある。けれど、少なからず人間関係の中で生まれる温かな関係性やその関係性が果たす役割に関して興味関心があり、そういう目で日常生きている世界を見がちだ。
僕は少なくとも月に1回は兵庫県の南側に位置する神戸から兵庫県の一番北側に位置している香美町に出かける。出かけるといっても、そこに実家があるという意味ではむしろ普段神戸にいる時間が出かけている時間みたいなところもあるんだけど。
(ちなみに今日がその汽車に揺られて実家まで帰る日だ)
また、3か月ほど前までは就職活動をしていて、月に1回以上は東京にも行っていた。
そんな風に過ごしていると必然的に田舎と都会の空気の違いが鮮明に分かってくる。
空間とか、そこにある人間関係は僕の興味のあることでもあるので、余計に鮮明に浮かび上がって来る。
何となく想像はつくことだと思うが、田舎の方が感覚的には人の顔が見えやすく感じる。
これは単純に何人の顔を目にするかということではない。仮にその指標で測れば、東京や神戸の方が田舎よりも人の数は多いわけだから都会の方が顔は見えやすいはず。
ここで言う顔の見えやすさは、その人の顔の表情やそれによって現れるその人特有の「らしさ」といった感じだと思う。
ただ、この文章で言いたいのは、「田舎は顔が見えて、表情豊かでいいよね。でも、都会は殺伐としていて嫌だ」みたいな話ではない。
この文章で言いたいのは、むしろ反対のことで、「都会も捨てたもんじゃない、都会は意外な面白い場所を舞台にして顔の見える温かな関係があるやん」みたいな話。
その一例がタイトルにしているイートインスペース。
僕は塾講師の仕事をしている。
僕が担当していたある受験生は大型スーパーのイートインスペースで夏休み毎日受験勉強をしていた。
イートインスペースはそのお店で買い物をした人であれば、その商品を持ち込んで飲食が出来るというスペースで、一般的には長時間の勉強やパソコンを使用した作業などはあまりマナー的には良くないとされているイメージがある。
その子が勉強しているというイートインを僕も使ったことがあるが、その際に僕はそのイートインにも例のごとく長時間勉強などで使用することを禁止する貼り紙がしてあるのを目にしていた。
だから、その子がイートインで普段勉強しているという話を聞いたときには、注意されないのかなと気になったが、どうやら事情が違うらしい。
定期的にイートインのテーブルを拭きにやってくるおばちゃんはテーブル拭きをしながら「なんの勉強してるん?」と話しかけてくるらしい。
それは長時間勉強していることを注意するためではなく、その子を気にして応援する声としてだ。
さらには、そのイートインには毎日のように日中に時間のあるおじいちゃんやおばあちゃんが大勢滞在しているらしく、そのおじいちゃんやおばあちゃんにも時々話かけられ、顔見知りのような関係になっているらしい。
そして、極めつけはある日、そこで顔見知りの関係になっていたおじいちゃんが、ロープウェイのチケットをプレゼントしたいと言ってきてくれたらしい。
どうやら話を聞くと、そのおじいちゃんはそのロープウェイでお仕事をしていて、孫と同じ年の受験生が勉強をしている姿を見ていて、何か自分に出来る形でその子を応援したいと思ったらしい。
なんとも温かな空間。
東京に行くと、僕が感じるのは、お金をかけずに時間を過ごせる場所の少なさだ。
フリーで居座れるスペースが少ないなと感じる。
田舎にいれば海でぼーっと座ったり、適当な芝生で本を読んで時間を過ごしたりできる。
その意味でこのイートインはわずかにお金はかかる(商品を何か1点買わなければならない)ものの、比較的少額で、かつ、その条件さえ満たせばだれも排除しない場になっているようだ。カフェも同じような機能を持ち得るが、カフェによっては統一された雰囲気があり、どんな人、どんな過ごし方も排除しないとは言えない。
(もちろんイートインにも一定のモラルのようなものはあるが)
このイートインはある種の公共空間のように感じられる。
(ここでの公共は誰も排除しない場所という意味)
都会に行けば行くほど僕はまちの余白の少なさを感じる。でも、このイートインのようにどこかに余白はあるんだと思う。
見方を変えると、人は余白を探して、居場所を探して、どこかに余白を見つけているのかもしれない。その空間を、無言で、それぞれの役割のもとで作っているのかもしれない。
(その観点で言えば、テーブル拭きのおばちゃんはこの空間のキーマンかもしれない)
これからも目を凝らしてまちの中にある小さな社会を探してみたいと思います。
温かな優しい世界ばんざい!
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