こんにちは。山本修太郎です。
ブログを始めてみて1週間くらい経ちましたが、毎日のように書いてても書きたいことはそんなに尽きていない状況なので、土日はお休みするとして平日はぼちぼち書いていけたらいいなと思ってる今日この頃です。
ブログを書くようになると、これはブログで書こうみたいなネタ探し的視点が芽生えてくる一方で、この話は特に大事だと思う人との間で留めておこうとか、この人だけにはこの話をしてみようとかって考えることもあって、自分にとって特に大事な人の存在の輪郭がより鮮明に見えるようになってきている気がします。
この土日は地元に帰っていて、土曜日の夜は居酒屋で吞んでいました。そこで考えたことについて今日は書きます。
土曜日の夜19時前から僕は2人で居酒屋さんに行きました。
結局12時過ぎまで呑み続けることになるわけなんですが。
その居酒屋は地元の常連の方が多くいる感じの場所で、僕もちょこちょこ地元の方に連れて行ってもらったりしているお店です。
19時前にお店に入ると、常連らしきおじさんたちがカウンターで呑みながらボックス席のお客さんとお話をしていて。僕たちは空いてたボックス席に座って吞み始めました。
1時間くらいで最初からいた常連さんたちがぞろぞろと帰り始めて、カウンターが空いたのでカウンターへ移動。なんとなくカウンターの方が落ち着く感じがしたので。
引き続き呑んでいるとまた常連さんらしき集団のおじさんとお姉さんがやってきて。
最初は僕たちとその常連さんの間で会話をしたりすることは無かったものの、時間が経って何かのきっかけで、僕が何者か(どこの大学、実家はどの辺、みたいな)を常連の方に話す展開に。
すると、「お父ちゃん○○さんちゃうん?」とか「お父さんの弟と同級生だわ」とか常連さんが数珠つなぎ的に僕の身内と何らかの関係があることが分かってきて、なんとなく一緒に会話をしながら飲むような展開になった。
さらに、いとこが知り合いだとか、お父ちゃんは足が速かったとか、いろんな共通の身内話で盛り上がって。
何となくオチ的に「世間狭いなぁ」みたいな感じで談笑する。
地元の飲み屋さんに行くとこんなやり取りがいつもあって、なんとなくの知り合いが毎回のように増えていく。
僕以外の人がどうかは分かんないけど、「世間が狭い」って結構よく使う言葉で。
正直なところ高校生くらいまではこの感じが結構嫌だった部分もある。
高校生の時当時付き合ってた彼女と海辺を歩いてただけで、翌日そんなに親しくない保健室の先生から「どこどこの○○さんと付き合っとるん?私のお姉ちゃんが見たって言ってた」とか言われて。あなたのお姉ちゃんって誰やねん。すぐみんな報告するやん。みたいな。笑
若干煩わしいなと思うこともあったわけです。笑
でも、今は大人の階段を昇っているせいか、この状況が結構心地よかったりする。
世間って「世の間」って書くけど、文字通り僕は世間が狭いとかって自分の中にある世界とそうでない世界の間の距離感が近いことでもあるなと思っていて。
僕は大きな世界観があることって素敵だなと思うし、そんな世界観を語り続けられる大人でありたいなと思うけど、そのためには自分の世界とそうでない世界の距離を縮める必要があると思う。友達が出来て初めて自分事で話せる問題や、友達が出来て初めて当事者意識が湧く場所ってあると思うし、逆に言うと、友達がいない場所や身近な友達が関わっていない問題には興味を持てないことがある。
この夜は地元の常連さんだけではなく、1人車で4時間かけて呑みに来ている方がいた。その方はこの場所が大好きだって話していたけど、こうしてこの場所の店主や常連の方と友達になっている状況だと4時間っていう距離も心理的にはとても近い場所なのかもしれない。その人の世界はこの場所をきっかけに広がっている反面、世間は狭まっている感じがする。
カンボジアの子どもが貧困で苦しんでいるって英語の教科書で読んで、その瞬間は感じることがあってもやはり実感が持てない部分があるし、東北の震災も自分の言葉で語ることが出来ない部分がある。でも、カンボジアの子どもと友達になったり、東北に友達が出来ると当事者意識がずっと心に残っている。そうやって自分の世界とその外の世界との距離感を狭めていくことで僕のマップは広がっていっている。
そうやって考えると互いの世界の距離が狭かったり、知らないところで互いの世界がつながっていたりすることが知れる環境にあることはいいことかもしれないなと思う。
これからも世間は狭いなと談笑しながらマップを拡大していきたい。
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