僕には大学に入って心の中に印象深く残っている授業があります。
それは経済学部の専門授業ではなく、「社会と人権」という教養科目です。
この授業が印象に残っている理由はいくつもあります。
その理由のほとんどは担当されていた先生の言葉や熱量という部分に収束するのですが。
その先生はある病気とそれに伴う差別について専門にされている先生で、学問分野としては生涯教育のようなところに分類されるらしく、文理区分的には文系の先生ということになるようです。
前提として文系とか理系っていう分け方にはあまり本質的な意味は無いように感じていますが、今日あえて文系の役割というポジションを取って話をするのは、この先生の言葉を取り上げたいがためです。
僕はこの先生がすごく好きでした。僕は大学2年生の終わりごろ、まちの「差別をなくする町民のつどい」というイベントでカンボジアで過ごした経験をお話させてもらうという大役を任されていて、何を話すべきか迷っていたことがありました。そのときにこの先生にメールを送り、相談に乗ってもらったりしたほどです。先生はお昼ご飯に、先生の学生時代から行きつけの食堂に連れて行ってくださいました。
これが大学生活で大学の先生とさしでお昼ご飯を食べた最初で最後の経験になりそうです。
本題に話を戻しますが、その先生がおっしゃっていた言葉で印象深い言葉。
それは、
「文系の仕事は丁寧に言葉を選ぶこと、文系は言葉を使うプロであること」
という言葉です。
今更ながら、この言葉を今日改めて思い出しました。
先生の授業は答えの無い差別や人権と言ったテーマに対し、考え続けるというもので、毎回答えの見えない問を授業で与えられ、それに何かしら自分の考えを紡ぎ出すというものでした。
ルールは「難しい問題だと思う」とか「難しかった」という言葉を使わないこと。
難しいという言葉に逃げて、思考を止めることはしてはならない、考え続けなければならないというのが授業のルールでした。
テストでも、答えのある問題は出題されず、テストの2週間前くらいに事前にテーマが与えられ、2週間自分で必死に答えを作って、テストに持ち込み、それを時間内に回答用紙に書き写していくといった変わった形式。
そんな授業の中で先生がおっしゃっていてなぜか僕の中にずっと残っている言葉がさっきの言葉。
僕は大学に入って文系としての劣等感というか、理系への憧れを抱いていた部分もありました。何かをつくり出せる専門性への憧れとも言えるかもしれません。はたまた、隣の芝生は青く見えるってやつかもしれません。
でも、この先生の言葉で、そんな考えには意味は無いし、自分が選んだ文系の道にも色んな役割があるんだと前向きに思えた記憶があります。
(もちろん理系も丁寧に言葉を選ぶということは共通して重要なことだとも思います)
僕は、言葉には大きな力があると思っています。
その言葉を用いて、あるテーマについて概念を作ったり、モデルを構築したりする。確かに経済学を学んでいてもそのような側面が大きくあります。
一方で、言葉を使うこと、言葉を定義すること、概念を作ることにはリスクもあるはず。
その言葉が社会で歩いていくことは思わぬ弊害を生むこともある。時には人を傷けることだってある。
でも、だからと言って、難しいと言って、思考を止めてはいけない。
丁寧に言葉を紡いでいく。それが文系の仕事。
最近、色んな言葉について立ち止まって考えてみようとする自分がいて、そんな風にいると、行動を止めて足踏みをしているように感じてしまうこともあります。
でも、それが僕のすべき大切な仕事だと、改めて先生の言葉を思い出して考えました。
日々足踏みしながら、しっかり言葉の地面を踏み固めたい。一歩、一歩確実に。丁寧に。
では、また明日。
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