地域の経済について考えてみる


こんにちは。山本修太郎(@shutaro_same)です。


今日は「地域の経済について考えてみる」というタイトルでブログを書きます。


なかなか広いタイトルをつけていて、今日1回のブログでおそらく書きたいことのすべてを書けるわけではないと思うので、このテーマについては今後も新たな気づきがあるたびに書いていけたらなと思いつつ、特に最近思ったことについて言語化する回に今日のところはしたいと思っています。


よろしくお願います。




僕は経済学部で勉強をしているので、経済という言葉とは比較的普段から近い距離感で生活をしています。その中で勉強になることもたくさんある反面、実態の経済とその理論の乖離を感じることもしばしば。


そもそも経済学は経済という実体のないぼんやりとした概念のすべてを捉えきることは出来ないんだろうと思います。というか、実体の経済の動きを何とか説明しようとするために後追いで発達する学問みたいな部分が大いにあるんだろうと思う。


経済という言葉の曖昧さはすさまじく、人によってその意味するところが違うまま話が進んでいることもあると思います。僕が頻繁に帰っている地元香美町のような場所の経済と、普段生活している神戸の経済みたいな場所によってもその実体は違ったものに見えるところがある。


そんな風に経済は曖昧で複雑で難しいものである一方、人々の関心の的になっているのも事実。


香美町でもそれは例外ではなく、議会を見ていると常に話題に挙がっているし、まちの人も関心を寄せて話題にしている実感もある。これは一人一人の人が生きていくために行動する以上、その一挙手一投足が経済と結びついていると考えることが出来るから、話題にせざるを得ないからというのが一つの要因だと思う。


明日の生活を考える上で話題にせざるを得ないのが経済だし、経済はすなわち明日のわが身のことと言い換えても過言ではないのかもしれない。


僕自身地域の経済にはとても関心がある。


中でも地域独自のダイレクトな人間関係に基づいた中で仕事が生まれているように感じられる都市から見ると古びた仕組みに見えるような経済に関心があったりする。


以前はここまでで僕の考えは止まっていた。


だから、地域からお店が消えていくことや産業が衰退していくことに対してノスタルジーに近い感情論のようなもので危機感を語ることが多かったようにも思う。


高度化する社会背景の話や経済原理の話の前にそんな感情論に近い危機感は太刀打ちできず、経済原理の中で淘汰されてしまうこの状況が効率的であると半ば認めつつ、何とか抗おうとしていた感じがあった。効率化だけでは語れない災害など社会受けるショックに対応する力とか、人間らしさ、そういったことをキーワードにしていた。


でも、最近新たな観点に気付いた。当たり前のことだったのかもしれないことなんだけど。


地域経済の衰退の一つの事例として出てくる商店が消えていく現象は経済原理上効率化に向かっているわけではないようだと気づいた。


商店が消えたときに、需要がそのまま残って、供給だけが取り上げられているケースがかなりあるということに気付いたということ。


需要が地域から消え、供給側が消えていくのは経済学上合理的だが、需要がある場所に供給が無いのは合理的ではない。


でも、このような状況がある。


これは、経済学のフィールドだけでは説明できない部分だったりもする。


コントロールできない人の感情なんかもこの辺には関わっているようだ。


黒字だけどお店を閉めるケースが地域に多々あるのは典型例。


後継者問題は経済モデルでは変数になっていなかったりする。


最近香美町の中で、こんなところにお店が残っているのかと驚愕することがあった。でも、そこにはたしかに需要が存在していたし、そのお店を一人で担っているらしいおじいちゃんはその小さな経済のヒーローに見えた。


そのヒーローが消えたとき、その経済には需要だけが残る可能性がある。


これは効率的ではないし、合理的ではない。


そんなの嘘で、需要があれば必ず供給はされるよっていう声もありそうだから、考えてみると、たしかに車を20分走らせれば大きな供給者がいる。でも、車を20分走らせられる人が需要者ではないところにさらなる地域経済の難しさがある。


こんな風に見ていくと若者がまちに帰ってくることが待望される理由も分かるし、地域には仕事が無いわけではないってことも分かってくる。


ただ、この部分の解決策を経済学で説明できないことも理解しておく必要があると思う。

(最近は行動経済学のような経済学に感情を変数に入れ込む領域が発達してきているように説明出来る範囲が広がっているのも事実だけど)


待望されている若者を含めて人は、論理と感情の両輪で動く。そのうち、若者が帰ってきていない理由は感情面が大きく感じる。都市に行くより、田舎の方が可処分所得は大きいと言われても、都市に出るいわば非合理的な選択をするのは、感情的に都会に魅力を感じている部分があるからではないだろうか。


そして、感情的に納得させてくれる発信が少ないようにも感じる。


あくまでも個人的な意見なのでどれほどの人が共感を持って読んでくれるのかは分からないけど。


僕は地域の経済について漠然と最近こんな感じのことを感じています。


みなさんはどんな風に感じているのか気になります。


僕は、この仮説をもとに、感情を考えたアプローチを考えてみたいなと思っています。


2019年、年明けからそんなテーマにチャレンジするぞーと宣言して締めにします。


(きっと明日が年内最後のブログになります。また明日)



山本修太郎

山本修太郎のブログやら普段やっている活動に関して発信するためのページ。

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