こんばんは。山本修太郎(@shutaro_same)です。
平日ですが、今日は書きたいことがあって、鮮度も重要なテーマだと感じるトピックがあったので、思い立って書いています。
東京に来て2週間以上が経ちますが、ありがたいことにSNSでは多くの地元の方々とつながっていて、地元の情報に日々触れられる状態があります。もちろん、2次的な情報しか得られず、ちゃんと帰ってフレッシュで確かな情報にも触れなきゃなと思う次第ですが。
で、最近なんとなく僕がSNSで繋がっている地元の人たちの間で話題になっているようで、僕自身も気になっていることがあります。
それは、文化会館という地元の公共施設が建て替えられるという話題。その中でも、その工事に伴って施設の敷地内にある立派な桜の木が伐採されてしまうという話題です。
僕自身、文化会館という場所は去年『僕フェス』をした会場、僕らにとっての武道館であって、思い入れのある場所です。その場所の桜の木にまで地元にいる頃に思いを馳せられていたかは定かではありませんが、気になってしまう話題です。
今はその話題に触れても、外から見ることしかできない側面が大きいのですが、外から見ていて感じたことを僕なりの切り口で書いてみようと思います。
僕のもとに入ってくる情報はある程度の偏りを含んだ情報なのかもしれませんが、出来るだけ感情と論理のバランスを取りながら考えてみているつもりです。ほかの人の意見も聞いてみたいなと思います。感想なんかも是非聞かせてほしいですね。
では、本題に。
僕がこの話題を見ていて思ったこと、もっと言えば『僕フェス』を始める頃から持ち続けている課題意識。
それは公共施設はどうあるべきか。ということです。
もっと言えば、公共とはどういう意味かということです。
公共(public)とは、みんなに開かれた場所という意味。
日本語のイメージでは「公」という文字に、天皇という意味があり、「公」というものは一般市民とは離れた雲の上の触れられないものといったイメージがあるようですが、単なる「公」ではなく、「公共」となると、日本語の独自性はあるにせよ、それは偉い人以外の人も対象に入る言葉なはずです。
実際に公共施設のコンセプトを考えてみれば、図書館だって公立の学校だって、偉い人のものではなく、皆に開かれています。
公共施設は誰の持ち物なのか。
そんな疑問も考える価値のある問であると思います。
公共施設、例えば今回の文化会館は、香美町の持ち物のようです。
でも、だからといって、その施設のあり方やその施設の向かうべき方向性は香美町の偉い人が決める、それでいいのかと言うと、そうでもなさそうです。
行政には権力があります。それはなぜかというと、市民が、われわれ全体に関わる事象をひとつひとつ集まって解決しようとするととんでもない労力や時間もかかるため、ひとりひとりが自分の持っている権利を出し合って行政に託しているからです。中学や高校で習う社会契約ってやつです。
つまり、行政に力があるのは、市民が信頼して託しているからです。(信託)
では、その信頼が揺らいだり、力の使い方に疑問があるときには市民側からブレーキをかけるのは自然な権利であると考えられそうです。
もっと単純な話にしてみると、公共施設は市民の税金で出来ていることからも、公共施設の行く末についての議論に市民が参加することが出来るのは自然な形なのではないかと思います。
(誰が払った税金だと思っとるんやーーみたいな感じで話す人にはほとんど共感しませんが。笑)
いわば、公共施設に出資している株主としてのまちの人たちが、ひとりひとり株主として議決権を持つのは世の中で一般化している仕組から考えてもおかしくはないと感じます。
そんなことを考えてみると、あの文化会館の桜は誰の持ち物なんだろうと不思議な気持ちになってきたり。
少なくとも、文化会館なる施設、まちの文化の発信拠点ともいえる施設で、文化をつくり出すには、ストレートなシンプルな簡単なことではなく、あえてめんどくさいことをやることが本質なのではないかとも思えます。文化が生まれる時、そこにはある種のストレスがかかるものだと思います。
その点、今、文化会館を取り巻いて議論があるというのはまちに文化的な波がある、とてもチャンスな時間なように思えてなりません。
色んな人が色んな角度から色んな声を上げることが、まちに立体的な文化をつくる一歩だと、まちの声を外から聞きながら考えています。
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