大人はあたまを使って言葉を連ねるのが得意だ。
子どもはこころを使って言葉を発するのが得意だ。
いや、大人でもこころを使って言葉を紡ぐ人はたくさんいる。
あたまを使って言葉を連ねるのが得意になっている自分に抗おうとする大人もいる。
大人にだって「この自分の頭で考えて連ねたようで、誰からの借り物みたいな言葉はなんだ」と自分への違和感を感じながら眠りにつく日はある。
大人のなかにだって子どもはいる。
そもそも、大人はあたまを使うことが、子どもはこころを使うことが得意なんてことはない。
あたまもこころもつながっているのだ。
だからこそ、どんなにそれらしい企画書やレポート書いても、それがあたまでっかちな、こころ
からの言葉でなければ、こころは違和感を発する。
「なにかおもしろくない」「わかった気になっているだけだ」と。
反対に、どんなにつたない企画書やレポートでも、それが手紙でもいい、それがこころから発せられるものなら、文章がいくらつたなくても気持ちいい。
いま世界の主役はあたまなのかもしれない。
誰がつくったか分からない横文字や専門用語、誰かが使い古した言葉を駆使する大人たち。
でも、毎日帰りの電車に揺られながら、お風呂に入りながら大人たちのこころはあたまと格闘する。
「ほんとにやりたいことってこれだっけ」と。
世の中では働き方改革が叫ばれている。
その中で、「住むこと暮らすこと」と「働くこと」の距離を近づけようとする動きがある。
戦後作り上げた都心と郊外というモデル。
経済規模をどんどん広げ、国を成長させ、みんなでお金持ちになろうと都心をつくり、
そこにたくさんの労働力を供給するために住宅街を郊外につくった。
郊外はベッドタウンと呼ばれ、まさに働いて頭を使って疲れたお父さんが頭を休めに寝に帰ってくるまちなるまちを形成した。
このモデルにも社会の変化で限界が来たと感じた偉い人たちは働き方改革と称して、「住むこと暮らすこと」と「働くこと」の距離を近づけようとしているらしい。
上に書いたような社会状況はもはや僕らには当事者意識も無い、それこそあたまで考える言葉なわけだけど、考え方次第ではこの「住むこと暮らすこと」と「働くこと」の距離を近づけようとすることはあたまとこころの距離を近づけるということなのではないかと思うわけで。
職場というあたまが主役だった世界と家というこころが主役だった世界。
これが近づけばもっと働くの中にこころからのクリエイティビティが加わるかもしれない。
例えば、地元で働くことと見ず知らずの場所で働くことを考えたとき。子育てをしている暮らしのフィールドで働いていれば、そうでない場所で働いているときよりもっと自分が課題に感じる子育ての悩みを働くフィールド、ビジネスのフィールドで考えやすくなりそうだ。
これならこころもあたまもいい関係。
さらには暮らしの現場にはたくさんの思い出がある。
僕らの過去は場所やその場所にいる人に紐づきながらたくさんの感情が思い出として溜っている。
暮らしの現場にはこころで感じられるものがたくさん落ちているのだ。
僕らは夢や目標を持つことがある。でも、その夢や目標は僕1人のこころから勝手に湧き上がってくるものではない。夢や目標は誰かとの関係やその場所への思い入れ、何かへの憧れ、そんな関係の中を漂っているから湧き上がってくる。
暮らしの現場には達成したい夢や目標、ミッションで溢れている。
あたまとこころを近づけよう。
こころから湧き上がってくる感情や言葉をあたまで整理しながら仕事にする。
そんな大人になりたい。
そんなことを考える社会人1年生。
郊外の暮らしやまちづくりを考える中で、いい人、いい本、いろんな出会いがあり、そんな中でいったんあたまとこころの整理として書き留めておきます。
0コメント