お金ってなんだ

最近ぐるぐる考えている。お金ってなんだ?

みんなにとっての「お金とは」を聞いてみたい。

僕は4年間、一応経済学を勉強した。経済学と最初はかなり仲が悪かったけれど、最近は結構上手くやっている。特に原理的な部分での考え方は、当たり前かもしれないけれど、納得いく説明が多く、すげえってなる。

「お金ってなんだ」この疑問が思い浮かんだ背景には「ボランタリーに活動すること」「お金ではなく想いによって活動すること」と向き合ったことがある。お金が関わらない活動、お金を介さない関係性。そのことの難しさを突きつけられたように感じた瞬間が、この疑問の源泉。


経済学的なお金の捉え方は、原理的にはこんな感じだと僕は理解している。ちょっと長いけど、自分なりの整理として書き残す。この理解は、お金の一側面に対する理解でしかないけれど(万一に備えて一応保険をかけておく。笑)



僕はリンゴを育てることができるから、毎日リンゴを食べている。あなたはバナナを育てることができるから、毎日バナナを食べている。僕はリンゴが好き、あなたはバナナが好き。でも、僕はバナナも好きで、あなたはリンゴも好き。毎日毎日同じものを食べるのもいいんだけど、たまには違うものも食べたい。だったら、手元にあるリンゴを1つあなたに渡して、その代わりにあなたからバナナを1つ渡してもらえれば、お互い、より幸せになれる。

でも、もしかすると、あなたはバナナ1つを育てるために僕より大変な苦労をしていたかもしれない。だから、あなたは、自分が苦労して作ったバナナを、あまり苦労せずに作られたように見えるリンゴ1個とは交換したくないかもしれない。「だったらリンゴ2個くれよ」と。

さらに、僕とあなた以外にパイナップルを育てることができる人がいたら、事態はより複雑になる。3人それぞれが、それぞれの果物の価値をそれぞれに評価する。物々交換は意外に難しい。そんな取引をする場が「市場」だ。自分が育てたものを持ち寄って、お互いに納得いく条件で交換する場所。

今までは自分で食べるためにリンゴを作っていたけれど、市場があることで、僕は他の果物を手に入れるためのツールとしてもリンゴを作るようになる。そして、そうやって作ったリンゴは誰かが必要ともしてくれている。リンゴを作ることで自分の生活も、誰かの生活も豊かになる。いい世界だ。

でも、一つ問題がある。リンゴを持って市場に行って、バナナやパイナップルを持って帰ってきても、それらを食べ切る前に腐っちゃう果物がある。果物は腐ってしまうと価値がなくなってしまう。この果物の価値を腐らせずに持っておいて、その価値でまた必要な時に必要なものと交換できたらハッピーなのに。そんな風に価値を保存しておくことで、交換の幅を広げてくれるのが「お金」だ。そもそも交換という行為が、自分や他者の生活を豊かにするための知恵であるわけだから、その幅を広げてくれる「お金」ももちろん、自分の生活や他者の生活を豊かにするものだ。

「お金」という紙切れ1枚はリンゴ1個分です。2枚でバナナ1房分です。3枚でパイナップル1個分です。そんな風に特定の価値基準をみんなで共有するチケットを介して、誰かが育てた果物をもらう。そうすれば、もらった側はそれまでと同じように、そのチケットと誰かの果物を交換できる。そのチケットは腐らずに価値を保持し続けるから、食べきれる分だけ果物に変えて、余った分は紙切れのまま持っておく。そして、また必要な時に果物に変えてもらう。



大発明だと思う。

ここから学びとれること。


人は相手と交換し合うことで、自分一人では得られないより豊かな暮らしを手に入れることができる。そうやって交換し合うことで、自分の得意なことをしながら、自分には作れない成果物を手に入れることができる。そんな価値の交換、得意なこと・頑張ったことの交換によって、より楽しく豊かに暮らそうという知恵。その交換する価値を、腐らせずに、交換し続けられるようにしてくれるツールが「お金」ということ。


なるほど。人はギブとテイクで豊かに生活していくんだな。

ここでいう豊かさとは決してお金の多寡ではない。お金は価値の交換を媒介するツールにすぎない。お金を多く持っているから豊かなのではない。お金を多く持っているというのは、それだけ必要とされる誰かに果物をあげたということ。それだけ誰かと価値の交換をしたということ。自分一人では手にできなかった果物を手に入れられるチケットをもらったということ。お金が回るということは、一人では実現不可能な生活をみんなで実現可能にするということ。みんなでいることの潜在的なパワーを引き出しているということ。


原理的には。


そう考えると、「お金」の見え方が変わる。


でも、お金が介在しにくいフィールドだってある。僕たちがリンゴやバナナやパイナップルを生産するために、どんどん山を耕していった結果、環境に負荷がかかって、気候が変わって、果物が育たなくなってしまったら。当然、環境を守っていくためにメンテナンスしないといけない。じゃあ、そのメンテナンスのために活動して、環境が改善したら、その恩恵を受けるのは誰?当然、果物を育てる全員がその恩恵を受ける。だから、全員でそのメンテナンスをするべきだけれど、「メンテナンスに参加せずにサボった人も恩恵を受ける」という事実を排除できない。平等な価値の交換が成立しない。頑張った人もサボった人も平等に恩恵を受ける。もどかしい。得てしてこういう領域がボランタリーな空間、熱心な想いを持った人の上に成り立つ空間になる。


ギブすることでテイクはあるけれど、そのテイクはギブしていない人もテイクする。経済学はこの領域にすでに「公共財」という概念で答えらしきものを見出している。例えば、国民全員から税金として徴収した上で、政府がその領域は担いますよといったアプローチ。最近流行語になりつつあるコモンズもこの辺の領域(?)


経済学的なアプローチが常に正しいとは限らないし、いろんな立場があると思うけれど。誰かがやらないとマズいことになるという領域に対して、それを誰かがやったのであれば、できる限り、その価値を享受する人たちで対価を渡し、一人ではなくみんなで関わることによるパワーを引き出したい。少し発想を変えて、見る角度を変えて、「お金」を滑り込ませることで、熱意を持続させたり、熱意を膨張させたりすることができればなと思う。「お金」という発明のいいところを使いながら、豊かに暮らしていけるといいな。引き続き、考えないといけない宿題。


山本修太郎

山本修太郎のブログやら普段やっている活動に関して発信するためのページ。

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