生みの苦しみと後発性の優位


最近新たにチャレンジしていることがある。


形になる日がもうすぐそこまで近づいてきている。


ここまで着々と準備を進めてきた。


僕が当初想定していたよりも多くの壁にぶつかり、消費カロリーはなかなかのものになった。


これまでやってきたプロジェクトとは巻き込む人の数も違えば、動くお金も違う。


落ち着いて考えてみれば多くの壁にぶつかるであろうことはもう少し想定できたかもしれないけど、いずれにしても予想を超えてきた。


もちろん嬉しい誤算もたくさんあって、感謝してもしきれないことがすでに数えきれないほどある。


今日少し考えたのは、生みの苦しさと後発性の優位。


少し学説っぽい、かっこつけたタイトルをつけてみたものの、内容はシンプルで。


何か新たなことにチャレンジしようとするとき、新たな仕組みを作ろうとするとき、その当事者は相当なカロリーをそこで消費する。人に迷惑をかけながらも、支えてもらい、自分の中で感情を戦わせる。


でも、作った仕組とともにその背景までが人に伝わっていくことはあまりない。


これは、伝える努力を怠っているという側面もあるかもしれないけど、どこかで伝わらなくてもいいと割り切っている部分があったり、こんなにも苦労したんですよとか頑張ったんですよと言って回るのが当人の美学に反するからかもしれない。


さらには、自分の作った仕組の背後にある苦労が報われたなら、その背後にあった生みの苦しみは、必要な素晴らしい経験だったと思うことが出来る。


その反面、新たな仕組みを考えた先に待つ宿命的なものに後発性の優位があるように思う。


後発性の優位は経済学で使われる用語だったりするようだけど、文字通り後からやってくる人の方に優位があるってこと。つまり、新たな仕組みを考える生みの苦しみは経験せずに、既に生まれているその仕組みを利用する側になって進歩できるということ。


僕は使えるリソースは使う方がいいと思う。


その一方で、そのリソースを使えることの背後にあった生みの苦しみを理解しようとする姿勢は忘れたくないなとも、今回色んなチャレンジをしてみて思った。


以前、聞いたことがあることとして、田舎ではビジネスをしにくいというようなことを聞いたことがある。


田舎で何か新たなチャレンジをしようとすると変な批判をしてくる人がいたりする(これは田舎に限ったことではないかもしれない)、そして、そのチャレンジが成功すると手のひらを返してその仕組を真似されたりする。こういった感じ。


この状況にどうこう言いたいわけではないんだけど、少なくとも自分はチャレンジを応援し、チャレンジの成功には生みの苦しみが大いにあるということを理解しようとする姿勢を固持したい。


今回のチャレンジで、こんなことを思った。


それだけ、今回のチャレンジがこれまでよりも大きな挑戦だったからこそ実感できた、勉強できたことだったのかもしれない。


瞬間瞬間で腹が立つようなこともあったけど、生みの苦しみを理解してくれるような自分のありたい姿で応援をしてくださる方にもたくさん触れられた。


何か行動をしてみると結果はどうであれ自分の人間性をカタチづくる勉強が出来る。行動は学校。


以上。




来週と再来週はイレギュラーな過ごし方になる2週間なのでブログをお休みします。


山本修太郎

山本修太郎のブログやら普段やっている活動に関して発信するためのページ。

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