その人たちと同じ時代に同じ場所で生きることが出来れば


こんにちは。山本修太郎(@shutaro_same)です。


2018年もあと1週間と少しですね。寂しいような嬉しいような。


最近のブログはエッセイ調のものが多かったですが、今日は少し体裁を整えて書いてみようかなと思っています。


ここ最近エッセイ調の文章が多いことの理由を自分なりに分析してみると、その理由は2点ほどあるらしく、1点目は最近エッセイを読んでいるということ、2点目は感情的になった瞬間に起因する文章を書くときにエッセイ調の文章の方がフィットする感じがあるということ。


反対にある程度論理的に考えていることを書いたりするようなときは少し体裁を整えて書く方がしっくり来ますね。


ここ最近のブログタイトルを見るだけでも、『めがね』、『フィルムカメラ』、『大人になるって人に怒られないように、文句を言われないようになることなのか。』、『想像することと優しさのいい関係』、と日々色んなことを考えながら迷走しながら過ごしていることがうかがえる感じがします。


僕自身最近は自分の迷走っぷりを認識していて、今日はその極みのようなブログになる可能性が高いです。



タイトルは『その人と同じ時代に同じ場所に生きることが出来れば』

(タイトルからもう迷走っぷりがすごい。笑)



僕は、ハンナアーレントとハーバーマスという二人の人と同じ時代、同じ場所を生きてみたかったなと思っています。


ハンナアーレントもハーバーマスもドイツ出身の哲学者です。


厳密には社会学とまたがっていたり、複雑な部分もあるようなので哲学者まとめるのが的確がどうかは分かりませんが。


僕自身まだまだ勉強不足な部分がたくさんあるので、この二人の主張や功績なでについてここで深く掘り下げることはしませんが、二人ともドイツにルーツがあり、ヒトラーを生んでしまったドイツの過ちへの反省のようなものが共通するテーマにはあるようです。


ハンナアーレントは、人間らしさやそれが現代社会でどのように変容しているのかなどについて今から50年以上前に論じていて、ハーバーマスは大衆がどのように変化し、それに伴って公共というものがどのように変化しているかといったことについて50年以上前に論じています。


僕は大学受験の時にセンター試験で倫理という科目が必要で、そこで多くの哲学者の名前を覚えました。その中にハンナアーレントやハーバーマスという名前があったのは薄っすら覚えていましたが、彼らが何をした人で、どんな主張をした人なのかということまでは理解していなかったように感じます。


しかし、最近、歴史をさかのぼって公共空間やコミュニティの変容といったことについて勉強をしていく中で再び彼らに出会うことになりました。


彼らはざっくりと言うと社会の発展に伴って人間の人間らしさや人間として大切にすべきことが失われつつあることへの危機感の様なものを主張しているように感じます。


僕自身、何となく普段から社会が便利になること、高度になること以上に、その背後にある見えにくい変化に目を凝らそうとしている部分があって(これは誰の影響を受けているのかは分からないが)、友達や仲のいい人にもそんな風なことを考える人が比較的多い気がしています。


このような考え方は、僕の感覚的なものに過ぎないし、僕がこのような考え方に立つことに特にこれと言った明確な理由はないように思います。ただ単に周囲の環境変化の中で考えたことの蓄積の延長のような感じ。


大学に入ってからはこんな感じの話を友達と少しだけするようになり、自分の考え方が少しずつ出来てくることに対して喜びを感じる一方で、そんな自分の考えを共有することの難しさや自分の価値観がマイノリティなのではないかということから来る無力感のようなものも少なからず感じている部分もありました。


そんなときに歴史をさかのぼって勉強してみると、50年前の人、教科書の中の人の言葉に自分が心から共感できるものを見つけた。


それがハンナアーレントやハーバーマス。


「そう、そういうこと!」っていう自分の言いたいことを言語化してくれる人が50年前にいた。


その事実がなんとなく嬉しかった。


この人たちと同じ時代に同じ場所で生きていたとしたら僕はどんな話をするのか、とか、どんなアクションを起こすのかとか考えてみるとおもしろかった。


そして、見方を変えると、今自分が感じていることや持っている価値観はマイノリティとかマジョリティとかそういう問題ではなく、時間や場所を超えて共有できる人がいると信じたり、時間や場所を超えて伝えようと言葉にして発信することでしか、新たな共感や仲間を生むことは出来ないんだということなのかもしれない。そう感じました。


もっと勉強します。


最後に、今日書いたような気付きを得る過程で、改めて自分の考えを見直すために、1年前くらいに言語化した『しとしとについて』という今運営している『しとしと』というウェブメディアの中の一節を紹介しておきます。この文章に立ち返って、自分の考えは変化していないといい意味で実感したものです。


しとしとについて |

Concept|目指すもの 「自分"らしく"生きたい人で、地域の"らしさ"をつないでいく。」 地域の魅力を発信したり移住を促そうとする取り組みはたくさんあります。 様々な事例の中で、しとしとは"らしさ"という物語で人と地域を繋いでいきます。 僕たちがしとしとを始める前、地域での活動するなかで抱いた確信。 それは地域の個性は観光資源や地理的な特徴でなく、 そこに住む人の"らしさ"の総体であるということ。 "らしさ"を大切にする人がいる地域には、顔の見える関係から生まれるお仕事、生き方がある。 僕らが地域で出会った人の中には、まさにそんな生き方を体現する人生の師匠と呼べる人がたくさんいました。 そして、同時に抱いた、そんな人の"らしさ"が忘れられ、 地域の"らしさ"が失われている感覚。 段々と、顔の見える関係から生まれるお仕事が行き場を失っている現実。 これは経済の原理として仕方がないのかもしれない。 でもそんなお仕事も、外の人の視点が入ることによって、 人と人の交流から生まれる工夫で、生まれ変わる可能性を秘めている。 これを外の人が関われる「余白」として捉えられないか。 一方で、日々の生活のなかで感じる、大きな流れに対する違和感。 枠組みの中にいることで感じる、そこに当てはまらない自分。 僕たち自身がそんな感覚を抱いていました。 同じように自分"らしさ"を模索している人がたくさんいるのではないか。 しとしとはその思いに、地域という選択肢を届けたい。 地域の「余白」を人の"らしさ"の行き場にすることで人も地域も生き生きと動き出す そのために、地域にいる師匠と、僕ら悩みながら自分"らしさ"を模索する人、そして場所としての地域"らしさ"を繋げていきたい。 そんなことを目指して、しとしとは活動しています。 しとしとはずっと完成しない場所だと考えているので、 読んでくださる方と一緒に進んでいきたいなと思っています。 どうぞよろしくお願いします。 How|使い方

しとしと


以上。


山本修太郎

山本修太郎のブログやら普段やっている活動に関して発信するためのページ。

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